• 32年間の思い出を語る長濱元監督=東京グランドホテルで(近藤龍撮影)

  • OBから現役生に記念のボールが送られた

「50周年記念」長濱元監督インタビュー

[ラグビーフットボール部]50周年記念式典(2019年11月07日 17時30分)

今年で50周年を迎えるラグビー部では、6月30日に東京グランドホテルで50周年記念祝賀会が行われた。
今回は、ラグビー部で32年間監督を務めた長濱友雄(82)氏に話をお聞きし、部の歴史を振り返る。

―ラグビーと出会ったきっかけ何だったのでしょうか―
「自分は中学生まで野球をやっていた。高校に入ってしばらくは何もやっていなかったが、体調がすぐれなかったので、何かやった方が良いのではないかと思ったのがきっかけ。どうせやるのであれば、強い部活の方が良いと思い、当時(その学校が)大阪で一番強かったラグビー部に入った。自分が入部するまでに、全国で2回優勝していて、大阪府内では強い高校だったので入った」

―大学は筑波大を選択していますが、理由などはあったのでしょうか―
自分が入った時は東京体育大学だった。今は筑波大になったけれど。自分は先生になろうと思って決めた。国立だったので授業料も安かったのもあるかな。

―当時のポジションは―
フッカーをしていた。高校から大学を卒業するまで、ずっとフッカーをしていた。
―体格的に不利な状況をどのように受け止めていたのでしょうか―
元々いろいろなスポーツをやっていた。相撲、水泳、陸上など。だから身長が低くかったが、体力には比較的自信はあった。

―ラグビー部の創立期に関わっていたとお聞きしたが―
正確には創部には関わっていない。ラグビー部の創設は昭和45年。43年ぐらいに当時、ラグビー部を作った人から、「ラグビー部を作ったので、指導していただけないか」という申し出があった。それまでは、駒澤大学に在籍していたが、東工大で監督をやっていた。

―2代目部長になった経緯を教えてください―
初代の部長は1年で引退された。仏教学部の東村先生。当時の学生が頼み込んで、部を創立した。その後に自分のことを知って、どうにか部長をやっていただけないかということだったので、了承した。44年から面倒を見ている。実質的にそこから始まっているということで、50周年を迎えた。

―自身がプレーする時と学生達を指導する時に気をつけていたことに違いはありますか―
特別にはなかったけど、自分が一番思っていたことは、「ジャージを着たら阿修羅のごとくあれ」そして、そうで無いときは「一般の学生よりも学生らしくありなさい」ということは常々言ってきた。

―ラグビー部に関わってきて一番印象に残っていることは何でしょうか―
自分が監督に就任して2年くらいの時に非常に優秀な学生が何人かいて、いきなり優勝して2部になったこと。ところが優秀な学生もあっという間に卒業してしまう。(推薦制度を)取り入れてないから、どんな生徒が来るかによって、成績が大きく変わってしまう。だから2部に行っても大体1年でまた…

―推薦を取るという選択はなかったのでしょうか―
自分自身が高校の時に早稲田に推薦で引っ張られたことがある。先輩たちが学費の面倒は見るからと言ってくれたことがあったんだけど、学費のことまで世話になりたくなかったので。自分がずっと自分自身でやってきたので、推薦で選手を取れば、全てが当たり前になってしまう。今は大学の競争が激しいから、選手を取っても簡単に強くはなれないけどね。

―入学時には無名の新入生もいる中でどのようなことを意識して指導されていたのですか―
やはり、ラグビーを好きになることが一番ではないかと思っている。そうでないと続かないと思う。近頃ラグビーに「汚い、きつい」というイメージがついて、だんだんやる人が少なくなってきている。どちらかというと、甘やかされることも多いけど、ラグビーは甘やかしてやっても逆にけがをする可能性が上がってしまって危ない。よっぽどの覚悟を持てやらないと、命に関わるので。自分は高校の時の定期戦で、相手選手がタックルに来て頭を打って、首がおかしくなってしまって死んでしまったのを見たことがある。だから、自分たちは全国大会に出ることが決まってたけれど、相手のお葬式に出席した。そういう事もあるので、よほど気をつけてやらないと遊び半分でやっては絶対にいけない。だから自分はグランドに立ったら、そこで死んでも良いという思いでやっていた。

―そういう思いもあって「グランドに立ったら阿修羅の如く」というモットーが生まれたのでしょうか―
直接的にそういう思いではないかな。グランドに出たら自分の持てる力を全部出しなさいという思いです。ラグビーって縁の下の力持ちみたいな人が沢山いて脚光を浴びる人の方が少ない。だけど、それに腐らないで、みんなの力を結集して頑張るためにはみんながそういう気持ちをもってやらなければいけない。

―辛かった時期は―
学生同士で上手くいかず、夏合宿もできなくなってしまった時があり、そのときは辛かった。
―そのようなときはどのような指導をなさったのでしょうか―
自分は、自分自身がジャージを着てプレーするのが大好きだったので、自分自身47歳まで現役でやってたわけ。だから、揉め事というのは学生同士で解決しなければいけない部分があると思っていた。やはり自分で連れてきた学生では無いからね。

―47歳まで現役だったとおっしゃられましたが、辞められたきっかけなどはありましたか―
学生部長になったらかな。怪我をされては困るということで。自分はそれまでに肋骨4本ヒビが入って、腰の骨2本ズレたぐらいだった。現役の時はなんでも死ぬ気でやっていたから。

―大変な中でもラグビーを辞めなかった、理由は何なのでしょうか―
自分自身で本当に好きだったのだと思う。相手をタックルして倒すのが好きだった。自分が倒されるのは嫌だけど(笑)。でもね、こういった肋骨でもなんでもみんな相手がバーンと当たったからなったわけ。40歳になってもなったことがあるよ。カナダで(プレー中に)やられて。折れるのではなくてズレる。肋軟骨分離になってしまった。その時は絆創膏を1枚貼ってそのまま試合に戻った。

―プレイヤーと指導者はどのような違いがありますか―
いやぁ、自分は歳を取るまで教えるよりもプレーする方が好きだった。だから、若いころは練習で学生がミスしたりすると「ちょっと見てなさい」って自分が入って教えた事もある。

―駒大ラグビー部というものは、ご自身にとってどのような存在なのでしょうか―
駒澤で学生部長をやっているといろいろな部活と関りが出てくるが、やはりどれだけ成績が悪くても「かわいいな」とは思う。

―どのような生徒になってほしいと思われますか―
別にとびぬけた生徒でなくても良いと思うが、やはり自分自身が満足して「これだけやったんだ」という事を思って卒業できるような生活を送ってもらいたい。

―指導してきた学生が成長していく中で何か感じることはありますか―
みんながOBになってからも「先生」って言ってもらえることが嬉しい。社会人として定年になった人もいる中で、いまだに「先生」と言ってくれて集まってくれるから。

―ラグビー部の今後については―
成績が上がるのは良い事であるのは確かだが、成績のことよりも自分自身が満足して卒業できればいいのではないかと思います。

―ラグビーの魅力は―
仲間の結束が非常に強いという事かな。やっぱり、非常にきつい思いをして練習なり試合なりをして、お互いに苦労して15人がまとまらないと試合にならない。だから、OBになってからもその結束が強いのだと思う。

―指導されてきた学生や現在駒大ラグビー部でプレーしている選手に向けて一言お願いします―
やっと50年だからあと50年。結果100周年が迎えられるようにみんなで頑張ってもらえたら良いなと思う。

―最後に50周年を迎えたことに関して一言お願いします―
本当に健康に50周年を迎えられて本当に良かったと思います。ありがとう。

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