• 不動のエースとして活躍した田中=代々木第二体育館で(葛西紘太郎撮影)

  • 気迫を前面に押し出して戦う=代々木第二体育館で(葛西紘太郎撮影)

  • 1、2部通算32勝を挙げ特別賞を受賞する=駒沢屋内球技場で(葛西紘太郎撮影)

最強トリオそれぞれの4年間~田中満雄~

[卓球部]最強トリオ卒業記念特集(2007年03月27日 02時13分)

 この男なくして今の駒澤はなかった。田中満雄(政4)。入学当時2部だった駒澤を自らが中心となり2年次秋に1部へと押し上げた。昨春のリーグ戦では3位入賞に大きく貢献。秋には1、2部通算32勝を挙げ特別賞を受賞した。
 新天地へ旅立とうとしている今、最強時代を築きあげた不動のエース田中の4年間を振り返る。
 『最強時代』の始まり
 高校時代、田中はインターハイベスト8、全日本選手権ジュニアの部ベスト8など、輝かしい成績を残してきた。そんな田中に全国各地の大学はラブコールを送り、その数は実に20にも及んだ。しかし、田中は1部の大学に進学せず、当時2部だった駒澤を選んだ。それは「求めるものがあった」から。また、仁王聖雄前監督が誰よりも熱心に誘ったことも決め手の1つとなった。田中は当時のことを「自由にできる環境が欲しかった。それがどこの大学よりも駒澤にあった。それに仁王さんが一生懸命誘ってくれたのがうれしかった」と当時のことを振り返る。入学が決まると、田中はすぐに2人の男に電話をかけた。その2人こそが4年間苦楽を共にし、田中と共に今の駒澤を築いた伊東伸也(政4)と藤本雄大(商4)だ。「一緒に駒澤に入らないか?頑張って駒澤を1部に上げよう」。田中の思いは2人の心に響き、伊東も藤本も入学を決意。この時、駒大最強時代の序章は始まったのだった。
 歴史変えた昇格劇
 田中は入学後すぐにエースとして団体戦で活躍し、個人戦でも全日本学生6位、関東学生7位など順調に成績を残していった。そんな田中にとって、数々の戦いの中で「卓球をやってきて本当に良かった」と思える試合がある。それは2年秋の入替戦。創部53年目にして初となる1部昇格を果たした試合だ。この試合でも田中は相手校のエースを逆転で下し、ダブルスでも貴重な1点を叩き出す大車輪の活躍をした。昇格を決めた瞬間、田中だけでなく、伊東も藤本も他の選手達も、仁王前監督も、応援に駆けつけたOBもみな歓喜の涙を流したという。それだけ1部昇格は長年の悲願であり、越えなければいけない壁だった。試合後、田中のもとには祝福の電話やメールが数多く届いた。「やっと駒澤が1部の舞台に立てるんだな、と心から感じた」。2004年9月26日。この日半世紀以上にも渡る歴史は、田中をはじめとする駒大最強トリオを中心としたチームによって塗り変えられた。
 「日本一になる」
 「駒澤に入って本当に良かった」。田中は大学生活をこう振り返る。3年次春の2部降格や3、4年次の全日本学生選手権での4回戦敗退と苦汁を舐めたこともあった。思い通りにいかず悩んだこともあった。それでも田中がそう言えるのは「悔いがなく、良い仲間に恵まれた」から。1部昇格以外にも、リーグ戦1部3位入賞や、1、2部通算32勝など、4年間で多くの歴史を塗り変えてきた。その快挙を果たすことができたのは最高の仲間がいたから。そして田中を支え続けた仁王前監督を始めとした関係者がいたからだ。
 この春から田中は社会人トップレベルの実力を誇る強豪・シチズン時計に入社しプレーを続ける。これまでチーム内で常に追われる立場だった田中が、次は追う立場となる。だが田中は「楽しみ。挑戦していきたい」と気後れすることなく前を向く。掲げた目標は「日本一になること」。大学時代辿り着けなった頂点を、シチズン時計の田中として目指す。   
 4年間の全てを卓球に捧げ、駒澤を牽引し、駒澤の歴史を塗り変えた男。時代が移り変わり何年もの時を経ても、田中が残した軌跡が色褪せることはない。
田中満雄(たなか みつお)
1984年7月17日、青森県生まれ。
青森県・東奥学園高校出身。

発行冊子最新号一覧背景(左)

卓球部の前後のニュース

発行冊子最新号一覧背景(右)
発行冊子最新号一覧背景(左)

前後のニュース

発行冊子最新号一覧背景(右)